アンゲラ・メルケルは、1954年7月17日にハンブルクにて、牧師の父と、ラテン語と英語の教師をしていた母の間に、アンゲラ・ドロテア・カスナーの名で生まれた。父の仕事の関係で、生後数週間の1954年に東ドイツに移住することになった。その後、弟1人と妹1人が生まれている。
カスナー家は政府から危険視されておらず、西側諸国への海外旅行ができる特権も与えられていた。
アンゲラの学校での成績は優秀であり、特にロシア語と数学が秀でており、中学での全教科の成績は1.0で最高点であった。その後、現在のライブツイッヒ大学に進学して、物理学を専攻した。
大学在学中の1973年に、同じ学部の学生だったウルリッヒ・メルケルと結婚した。ところが、この結婚生活は長く続かずに、4年で終了。
1978年に優秀な成績で大学を卒業し、東ベルリンの科学アカデミーに就職して、理論物理学を研究することになった。ここで、現在の夫であるヨアヒム・ザウアーと出会うが、結婚は1998年であった。
1986年に博士論文を提出して、物理学者として分析化学に配置転換となる。
1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊した。普通の一般人であったアンゲラは当時35歳であったが、劇的に風向きが一変した。彼女は、先行きを不安に思った科学アカデミーを辞職し、「民主主義の出発」の結党メンバーになったのだ。その後、ロータル・デメジェール政権で副報道官に就任した。
彼女は、ドイツ再統一直前に西ドイツCDU党大会に出席して、党首で西ドイツ首相のヘルムート・コールに初めて出会う。そして、1990年10月3日の統一後、CDUに入党して、1990年12月2日に連邦議会選挙で、メクレンブルク・ファポンメルン州から出馬して初当選した。これが、初めて政界入りした経験である。
アンゲラは、第4次コール政権の女性・青少年問題相に抜擢された。その後、シュタージ(東ドイツの諜報機関)への協力という過去が明るみになったデメジエールの辞任を受けて、後任のCDUの連邦代理代表に就任した。1993年には、メクレンブルク・ファポンメルン州の党代表に就任した。
1994年10月の連邦議会選挙により成立した第5次コール政権では、環境・自然保護・原発保安担当大臣に就任した。
ところで、前任者のクラウス・テプファーの環境保護政策は、経済優先のCDU党内や連立相手の自由民主党の受けが悪かった。アンゲラはデプファー以来の事務次官を更迭してこれに応えた。
1998年の連邦議会選挙で大敗し、コール政権が終了して、CDUは野党に変わった。コールの跡を継いでCDU党首に就任したヴォルフガング・ショイブレの提案により、アンゲラは同党の幹事長に就任した。
1999年11月に、同党のコール政権時代の闇献金が発覚すると、アンゲラはいち早く「フランクフルター・アルゲマイネ」紙に寄稿して、コール元首相を批判して、少し距離を置くこととした。
2000年2月、この闇献金問題によってショイブレCDU党首が辞任すると、アンゲラは4月の党大会でCDUの党首に選出された。CDU党首とCDU/CSU連邦議会議員団長というショイブレの在位は、党首がアンゲラに、議員団長がフリードリッヒ・メルツCDU財務担当へと、別々に引き継がれた。
旧東ドイツ出身のプロテスタントの女性であり、しかも離婚歴のあるアンゲラは、CDUでは「リベラル派」とみなされて、保守本流からは懐疑的に見られていた。ところが、闇献金疑惑のショックを受けたCDUの地方議員、一般党首が、本流から外れるアンゲラを党首に引き上げた。事実、州首相の経験もなく、連邦議員団長でもなかったアンゲラは、連邦首相への通常の出世コースからは外れており、党内での権力も非常に弱かった。その頃は、旧東ドイツ出身者と女性の割合を増やすための数合わせだと思われていた。
しかし、アンゲラは権力基盤を確実なものに仕上げていった。
2000年時点で保守本流を代表して将来の首相候補として嘱望されていたのは、1999年SPDの強かった「赤いヘッセン州」で、ハンス・アイヒエル州首相を破ったローラント・コッホであったが、コッホが率いるヘッセン州CDU支部自体が、2000年に闇献金問題の直撃を受けて、保守陣営を運営できなくなった。
2002年の総選挙では、姉妹政党であるキリスト教同盟(CSU)のエドムント・シュウトイバー党首兼バイエルン州首相が保守陣営の首相候補となった。1月11日に、アンゲラは、首相候補を諦める代わりに、総選挙後に連邦議会議員団長のポストを得るという密約があったのである。アンゲラは、選挙後にメルツCDU/CSU連邦議会議員団長から、その地位を奪い取った。
その後、国政でのSPDと同盟90/緑の党の連立与党の不人気にも助けられ、CDUは州政レベルで確実に政権を奪っていき、2004年にはホルスト・ケーラーを連邦大統領に当選させることに成功した。
アンゲラは、旧西ドイツ出身の保守本流の政治家達が一目置くやり手の政治家に成長したのだ。
2005年9月18日に行われた総選挙では、アンゲラ率いるCDUはSPD・緑の党連合に僅差で勝利。
しかし、議席を22も減らしたために、CDUはSPDと大連立を組むことで大筋合意したが、CDUとSPDはわずか4議席差だったことから連立協議は難航した。最大の争点は誰が首相になるかで、アンゲラが首相に就任するのと引き換えに、16ある閣僚ポストのうち半数の8をSPDに譲るという合意が成立した。
2005年11月22日、アンゲラ・メルケルは第8代連邦首相に就任した。51歳での首相就任であった。
メルケル政権は、60%という高い支持率を長らく維持していたが、2010年3月、2年前に導入された通信法及び刑事訴訟法の関連規定が連邦憲法裁判所の違憲判決によって一部無効となった。さらに、4月のギリシャ財政破綻問題では、ドイツが多額の財務支援を行わなくてはならなかった。それで、内閣支持率は40%にまで下降した。
メルケルは失業率25%のギリシャに対して、さらに緊縮財政と500億ユーロ相当のギリシャ国有財産の売却民営化を含めた構造改革をするように命じた。国際通貨基金は、ギリシャには債務減免が必要だといったが、メルケルはこれには応じなかった。ところで、メルケルに限らず、ドイツ国民一般に財政均衡主義の傾向があるものといわれている。
2015年に起こった欧州難民問題において、紛争や政情が不安定な状態で北アフリカや中東などから大量の難民が地中海やヨーロッパ南東部を経由してEUに押し寄せてきた。最初は、EU政府は移民船救助作戦への財政的支出を拒んでいたが、2015年4月の難民を乗せた5隻の船が地中海に沈み、1,200名の犠牲者を出したことで世論が変わり始めた。大量の難民が財政に厳しいギリシャやマケドニア、イタリアなどの悪い環境で滞留するなどし、ドイツはEUの指導的立場にある国として、この未曾有の人道危機への対応を迫られた。
メルケルはEU諸国への必須の連帯メカニズムとして、他の危機的な状況に陥っているEU諸国から他の国へ難民を移動させる解決策を支持。
2015年8月、多くのEU加盟国が難民の流入に拒否反応を示す反面、ドイツだけは食料や衣類を難民に寄付して、難民申請が終わるまで、ドイツに居住させることに賛成した。そこで、難民や移民らが一斉にドイツを目指した。
2015年9月上旬、ドイツ政府は80万人もの難民を受け入れて、必要があればさらに受け入れる用意があるとも言わせた。その後にメルケルは、多くの外国人にとってドイツが希望の国になっていることは嬉しいことであるとも述べている。まメルケルは、難民の家を訪れて、「社会統合が子どもを通じて行われるでしょう」と述べている。子どもはドイツ語を親よりも早く習得して、社会に通じることになるからである。
2015年、ドイツは110万人近くの難民の受け入れを行った。その難民の多くは、北アフリカと中東出身者であった。しかし、ケルン大晦日集団性暴行事件が発生し、難民の受け入れに反対する市民による抗議運動が起こった。
メルケルは表向きは国境開放政策を唱え続けていたものの、閣内は移民流入を遮断する方向に舵を切り始めた。難民がEUにやってこないよう、2016年3月にEUとトルコとの間で移民の流入抑制の話し合いがついた。
一方、彼女の家族について述べると、2度目の結婚相手は、フンボルト大学ベルリンの教授であり、量子科学者のヨアヒム・ザウアーである。子どもはいない。
ザウアーは、メルケルの外遊に帯同せず、リヒャルト・ワーグナーの曲をこの上なく好んでいたので「オペラ座の怪人」と言われていた。
メルケルは、エカチェリーナ2世を尊敬しており、オフィスに彼女の絵画が飾られている。
さらに、サッカー好きであり、2006年に自国開催となったFIFAワールドカップでは全試合をスタジアムで観戦している。また、2008年のUEFA欧州選手権でもオーストリアまで駆けつけて観戦している。
2010年FIFAワールドカップでは、G20会場でデビット・キャメロン英首相とドイツ対イングランド戦をテレビで観戦した。この際、イングランドのゴールがノーゴールドとみなされ、いわゆる世紀の誤審とされた。
メルケルが観戦した12試合の成績は、11勝1敗であり、「勝利の女神」となっている。このように、彼女はサッカーが大好きである。
さらに、ヘブライ大学・ライブツイヒ大学・ブロツワフ大学から名誉博士号を授与されている。その他、ドイツ連邦共和国功労勲章やイタリアから功労勲章などを多数受賞した。さらに、アメリカの雑誌などで話題をもたらせている。
メルケルは、ドイツで最初の女性首相であり、その容貌から親しみを込めて「ムティー(母親)」と呼ばれている。
2020年欧州で猛威を振るった新型コロナウイルスの対策などでは、高い評価を得ており、与党支持率は発足当初まで高く評価された。
メルケルの学者時代の知恵や生活が、常に政治の礎になっているように思うのである。
-院長 岡田昌義