2020年12月17日

紙の専門商社 松村洋紙店を訪ねました

紙と紙製品の卸である松村洋紙店は、製紙メーカーから仕入れた紙を加工して、印刷会社などに販売しています。
販売した紙は、包装紙・お土産やお菓子のパッケージ・手提げ袋へと変容します。
世の中では、「脱プラスチック」というキーワードが浸透し、紙製品に注目が集まりつつあります。

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現社長の祖父にあたる松村半六さんが、昭和25年3月に、京都にて株式会社松村洋紙店を設立しました。
倉庫では、紙の保管・出荷作業のほか、断裁機を用いた断裁や貼り合わせも行っています。
見本帳には、本当に紙なの?と思うような風合いの紙がたくさんあります。

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最近始められたのが、食品事業「京のあられ処橘屋」。イオンと平和堂の銘店コーナーで販売中だそうです。
西大路七条の事務所では、個人向けにも紙の販売をしています。市販では手に入らない珍しい紙に出会えるかもしれません。


株式会社松村洋紙店
京都市下京区七条御所ノ内町51
電話:075-313-8184
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2020年07月27日

小紋・京友禅の染工房 吉江染工を訪ねました

吉江染工は七条御所ノ内西町にある小紋・京友禅の染工房。
京友禅型染部門の伝統工芸士でもある社長の吉江康二さんは、三代目に当たります。
創業の地は室町の近く。襦袢屋で染めの修業に励んだ祖父が小紋の染工房を始めました。
その後、水脈に恵まれた現在の地に移転し、父の代で型友禅に取り掛かることになりました。

現在は、図案を描く工程から染める工程までを自社で行っています。
吉江染工では、白生地を染め、反物として問屋に納めているほか、歌舞伎・宝塚歌劇団などの舞台衣装や力士の着物を作っています。
吉江染工が染めた着物は皇族がお召しになられたことも。
その腕前は見事なもので、様々な品評会で高い評価を得ています。

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最近では、一般のお客様向けに着物の染直しを行っています。
時代の変遷とともに着物の需要が減り、新事業が求められるようになったことがきっかけですが、思い入れの詰まった着物を大切に着続けたいというニーズが多いのだとか。例えば、お母様が成人式できた振袖を現代風に染め直し、娘様が成人式で着ることも。
着物のリフォームに応えている業者は少なく、全国から依頼が集まります。
お預かりした着物は、次の世代の思い出になるようにと、職人が創意工夫を凝らして染め直します。
工房では職人さん達がとても緻密な作業を根気よく続けておられました。

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業界の今後について、吉江社長は次のように語ります。
「海外に行って帰って来た人の話を聞くと、日本人のアイデンティティとして、着物の存在は大きいと感じます。弊社はその中で一役を担い、この伝統産業を残していきたいですね。」

吉江染工では年に1回、一般のお客様向けに”年一展”を開かれています。
繊細で優美な職人技を見に行かれてはいかがでしょう。


有限会社吉江染工場
京都市下京区七条御所ノ内西町63
TEL:075-313-6475
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2020年04月10日

京生菓子 七条きねやを尋ねました

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七条きねやは昭和16年に創業し、現在は三代目の奥村佳介さんが承継されています。
創業時から中央市場の近くの現住所にお店を構え、主に、餅・赤飯・婚礼の紅白饅頭・お供え菓子の注文を受けながら、並行して店先でも販売され現在に至ったそうです。
初代当主の元で修業されたお弟子さん達は独立し、常盤きねやと小倉きねやを構え、暖簾分けされています。

こだわりは昔ながらの自家製餡。餡づくりは豆を炊くことから始まります。
じっくり炊いた豆を中身と皮に分け、中身を布巾で搾って砂糖と合わせ、こし餡を作ります。
つきたての餅に餡を入れると看板商品の大福に。もち米・小豆・砂糖だけでできた混ぜ物なしの自然食品。この時期は桜餅もお勧めです。

お菓子は店先で一般販売しているほか、松尾大社や智積院などの寺社仏閣とも取引されています。
最近では、茶道速水流で稽古を積まれた三代目の佳介さんが、茶道の茶菓子ブランドとして菓匠おくむらを始めました。
病院のすぐ近く。一度こだわりの餡をご賞味あれ。

京生菓子司 七条きねや・菓匠 おくむら
西大路七条東 (明石病院北東50m)
電話:075-313-5561
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2019年09月21日

平清盛創建の社、若一神社

当院から西大路通を南に進むと大きな楠に沿って道路がカーブしています。ここにあるのが若一神社。平清盛が辺り一帯に壮大な邸宅を構えていた場所です。清盛は朝廷と密接な関係にあったため、この辺りは「御所ノ内」という地名がつきました。

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若一神社の起源ですが、その昔、威光上人が熊野詣時に若一王子の御神体を持ち帰り、この地の古堂に御神体を安置したそうです。しかし、異変により御神体は土中に埋まってしまいました。
仁和元年(1166年)、熊野に参った清盛に「邸内の土中に隠れている御神体を世に出し奉斎するように」とお告げがあります。清盛が三尺ほど掘ったところ、若一王子の御神体が現れました。社を造り、開運出世を祈ったところ、翌年清盛は太政大臣に任じられます。このため、若一神社は「開運出世の神社」といわれるようになりました。

宮司の中村さんに伺った若一神社の見どころベスト3は①平清盛手植え楠、②束帯姿の清盛像、③祇王歌碑だそうです。

①平清盛手植え楠
樹齢800年を超す大樹です。
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開運出世の神社、若一神社に一度足を運んでみてはいかがでしょうか。


若一神社
京都市下京区七条御所ノ内本町98番地
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2019年08月09日

島原大門

下京区には、日本最古の公許遊郭島原の正門である「島原大門」があります。
一間幅、本瓦ぶき、切妻の高麗門で、傍には柳の木が佇み、大門から続く道には石畳が敷かれています。

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豊臣秀吉が京都を再興したときに二条柳馬場に公許した花街が、後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、その後の京の町の発展に伴い、寛永十八年(1641年)、市街地の西に当たる当時の朱雀町に移りました。正式には西新屋敷と呼んでいました。
その急な移転騒動が、九州で起こった島原の乱の直後であったため、それになぞらえて「島原」と称されるようになったそうです。
幕末には、討幕派の勤皇志士たちや、新選組の隊士たちが足繫く通いました。

大門を抜けると、当時の面影を残す建物が残されています。
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